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名古屋地方裁判所 平成8年(ワ)1180号 判決

原告

西山千恵子

外三名

右四名訴訟代理人弁護士

伊藤静男

谷口和夫

福島啓氏

被告

日本たばこ産業株式会社

右代表者代表取締役

水野勝

右訴訟代理人弁護士

横山茂晴

岩渕正紀

入谷正章

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  請求の趣旨

(主位的請求)

1  被告は、たばこの製造及び販売をしてはならない。

2  被告は、原告ら各自に対し、金一〇〇万円及びこれに対する平成八年四月二三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  第2項につき、仮執行宣言

(予備的請求)

被告は、たばこの製造及び販売をするにあたり、たばこの害毒につき「喫煙は中毒性があり、肺がん、心臓病、肺気腫等の原因となり、周囲の人にも害を与えます。」との警告文を表示せよ。

二 請求の趣旨に対する答弁

1  主文同旨

2  主位的請求につき、仮執行宣言免脱の申立

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  (被告のたばこの製造、販売)

被告は、たばこ事業法に基づきたばこの製造及び販売を行っている。

2  (たばこの有害性)

(一)(能動喫煙について)

たばこの煙には、ニコチン、タール中の種々の発がん物質、発がん促進物質、一酸化炭素、種々の線毛障害性物質など、二〇〇ないし三〇〇種類の有害物質が含まれている。

喫煙をすると、これらの有害物質は、循環器系に対し急性の影響を及ぼす。また、喫煙者については、肺がんを始めとする種々のがん、虚血性心疾患、慢性気管支炎、肺気腫などの閉鎖性肺疾患、胃・一二指腸潰瘍などの消化器系疾患、その他の疾患に罹患する危険性が増大する。喫煙のがんに対する寄与度は、男性の肺がんでは約七割、女性の肺がんでは約二割と推計される。

また、喫煙は、全身、特に頭部及び四肢の動脈の粥状硬化の発生を促進し、血行障害を起こす可能性がある。

さらに妊婦が喫煙した場合には、低体重児出産、早産、妊娠合併症の率が高くなる。

右のような能動喫煙の各種の害については、平成九年版厚生白書においても記述され、公表されている。

(二)(受動喫煙について)

たばこの煙には、主流煙の他に副流煙があるが、副流煙に含まれている有害物質の量は、主流煙の二ないし三倍である。特に、ベンゾピレン、ジメチルニトロリアミンなどの四〇ないし五〇種類の発がん物質は、主流煙の数倍から一〇〇倍以上が副流煙に含まれている。

受動喫煙は、肺がん、虚血性心疾患、呼吸器疾患などの疾患に罹患する危険性をもたらすものであり、両親が喫煙者である小児の呼吸器疾患の率は高い。

受動喫煙は、短時間であれば、眼や鼻の痛みから狭心症、喘息をもたらし、長期間に及べば肺がんの危険性をもたらす。一日二〇本以上のたばこを吸う夫を持つ妻が肺がんで死亡する危険性は、そうでない妻の三倍以上である。

右のような受動喫煙の危険性についても、平成九年版厚生白書に記述され、公表されているところである。

(三) (たばこ依存症)

たばこの煙に含まれるニコチンには依存性薬物の持つ薬理学的特徴が認められ、たばこは、ニコチン依存症(薬理的依存)及び心理的依存(社会的、行動的依存)をもたらす。喫煙者の約七割は、たばこをやめたくてもやめられないたばこ依存症に罹患し、薬理的、心理的依存のために喫煙を続けている。

たばこ依存症は、アメリカ合衆国精神医学会の「精神障害診断統計マニュアル」改訂版(DSMⅢR)においても「ニコチン依存症」と呼称され、一か月以上のたばこの継続使用歴があり、①長期の禁煙や節煙が不可能であること、②喫煙中止時に退薬症侯が発現すること、③たばこ使用による身体疾患の存在下でも使用を続けることの少なくとも一つを満たすこととの診断基準が示されており、また、WHOの「国際疾病傷害分類」第10版(ICD10)においてもニコチンがアルコール、麻薬、コカイン等の依存性薬物と並んで記載されるに至っている。そして、わが国でも、ニコチン依存症の治療薬としてニコチン含有ガム製剤(商品名「ニコレット」)が要指示医薬品として販売されるようになった。

調査によれば、喫煙者の七五パーセントから八五パーセントがたばこをやめたいと思っており、その三分の一は三回以上禁煙に挑戦したことがあるが、六〇歳までに禁煙に成功するのは喫煙者の半数に満たないのであり、ニコチン依存症は禁煙の最大の障害となっているのである。

3(被告の違法行為)

被告は、たばこが、原告らを含む喫煙者及び受動喫煙者の生命、身体に害を及ぼすことを知悉しながら、自己の企業利益を優先し、たばこの害悪を告知、警告せず、たばこの宣伝をし、たばこを製造、販売している。また、被告はニコチンの中毒性を隠し、含有量を操作して喫煙者をニコチン中毒(たばこ依存症)に陥らせている。かかる被告の行為は、原告らを含む能動喫煙者及び受動喫煙者の生命、身体の健康、幸福追求権(人格権)を侵害するものである。

被告が、自社が製造、販売するたばこが中毒性を有し、肺がんその他の病気の原因となる有害な物質を含んでいることを知っている事実は、被告が外国で販売しているたばこに表示してある警告文からも明らかである。すなわち、被告がオーストラリアで販売しているマイルドセブンの包装には、たばこに常習性があること、たばこに含まれるドラッグであるニコチンは、たばこを吸いたいと喫煙者に感じさせ、たばこを吸えば吸うほど体がニコチンを欲するようになってニコチン依存症になること、一旦ニコチン依存症になると、やめることが困難になること、一本のたばこから出る煙には、平均して一二ミリグラム以下のタールと1.2ミリグラム以下のニコチン、一五ミリグラム以下の一酸化炭素が含まれており、一二ミリグラム以下のタールは発がん性物質を含む多くの物質を含む凝固された煙であり、1.2ミリグラム以下のニコチンは有毒で常習性のあるドラッグであり、一五ミリグラム以下の一酸化炭素は酸素を運ぶ血液の機能を低下させる毒ガスである旨が記載されている。また、アメリカ合衆国においても、たばこが肺がん、心臓病、肺気腫の原因となる旨を表示しているのである。

被告はたばこ事業法に基づきたばこの製造及び販売をしている。しかし、たばこ事業法は、たばこの害毒を前提としておらず、たばこ製造及び販売の違法性を阻却するものではない。

仮にたばこ事業法が右のような害毒を有するたばこの製造及び販売を許容しているとすれば、たばこ事業法は憲法一三条及び二五条に違反し、無効である。

4(原告らの被害)

(一) 原告らは、次に述べるとおり、被告のたばこ販売により、憲法一三条に規定される人の生命、身体等についての利益、即ち人格権の侵害を受け、現在も続くたばこの製造及び販売により被害を受けている。

なお、被告のたばこの製造及び販売と原告らの被害の因果関係の立証については、経験則に照らし、高度の蓋然性を証明することをもって足りると解すべきである。

(二) 原告加藤正明を除く原告らは、次のとおり、たばこの害毒について何らの注意、警告を受けることもなく喫煙を始め、被告の製造、販売するたばこの喫煙を続けることによりたばこ依存症に罹患させられた。近時はたばこの害毒を知り、喫煙をやめたいと念願しているが、やめることができない。右原告らは喫煙により健康を害され、家庭内、職場において円滑な人間関係を害され、身体的、精神的、経済的な損害を被っている。

(1) 原告西山千恵子は、二二歳のときに喫煙を始め、三〇歳代後半から循環器障害で通院し、昭和五八年には口腔外科において前がん状態との診断を受けた。その後、肺がんやパーキンソン病にかかった夫の闘病生活によるストレスから、一層たばこに依存するようになった。

(2) 原告松下芳夫は、中学生のころから始めた喫煙がやめられず、次第に喫煙量が増え、五〇歳のときには胃がんになった。医師から、たばこを吸うとがんになりやすく、自分の命を縮めるので喫煙をやめるように言われているが、容易にやめることができない。

(3) 原告西本チエ子は、一九歳の時に喫煙を始め、次第に喫煙量が増えて、以来四〇年以上の喫煙歴がある。たばこによって肺がんになる可能性が増すと聞き、一度禁煙を試みたが、禁断症状に苦しみ禁煙ができなかった。

以後、喫煙が体に良いことはないと思いながらも、禁断症状が出たことを思うと禁煙することができない。

(三) 原告加藤は、名古屋市役所に勤務する昭和二八年生まれの男性であるが、平成三年四月ころ、職場における受動喫煙により呼吸器疾患にかかって通院を始め、当初、気管支炎と診断され、同年一〇月には慢性気管支炎との診断を受けた。その後、血痰が出るようになり、慢性喉頭炎、慢性咽頭炎等の診断を受けて通院治療を受けている。

原告加藤の右の症状や眼の疾病には、たばこが有害である旨の診断がなされているが、自宅外及び職場では受動喫煙を余儀なくされ、健康を害されており、職場では、喫煙者である上司及び友人と十分に会話ができず、喫煙が許された会議や旅行に参加することが不可能で、社会的に不利益を受けている。

(四) 原告加藤を除く原告らが、たばこに費やした費用は、一日あたり二〇〇円として、三〇年分とすると二一六万円となり、右原告らは、少なくとも二〇〇万円のたばこ代の損害を蒙ったことになる。

(五) 以上のとおりの原告らが被った被害を慰謝するための慰謝料としては、原告各自につき、金一〇〇万円を下らない。

5(主位的請求)

憲法一三条に規定される人の生命、身体等についての利益は人格権として保護を受ける。これが違法に侵害された場合、被害者には損害賠償請求権が発生する。また、人格権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来の加害を予防するために必要な措置を求めることができる。

よって、原告らは被告に対し、人格権に基づき、たばこの製造及び販売の差止めを求め、かつ、不法行為に基づく損害賠償請求権に基づき、原告ら各自に対し金一〇〇万円及びこれに対する不法行為後である平成八年四月二三日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

6(予備的請求)

(一)(1) 製造物責任法二条二項は、同法における欠陥について、当該製造物の特性、その通常予見される使用形態、その製造業者等が当該製造物を引き渡した時期、その他の当該製造物にかかる事情を考慮して、当該製造物が通常有すべき安全性を欠いていることをいうと定める。

右の製造物の特性には、製造物の表示も当然に含まれると解される。この中に、警告ラベルや取扱説明書などの警告表示が含まれ、製造たばこの警告表示の欠陥も製造物責任法二条二項の欠陥に含まれる。

したがって、原告らは、被告に対し、製造物責任法の法理から、警告表示を適正なものにすることを求めることができる。

(2) 被告は、たばこが欠陥商品であることを認識しつつ、これを製造販売しており、このような行為は、強度の違法性を有する。したがって、原告らは被告に対し民法七〇九条以下の不法行為の条項から導き出される法理によって適正な警告文の表示を求めることができる。

(3) 憲法一三条に規定されている人の生命、身体等についての利益は、人格権として保護を受け、これが違法に侵害される場合には、被害者は損害賠償を請求することができるのはもちろん、侵害行為の態様及び程度によっては、人格権に基づいて、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来の加害を予防するために必要な措置を求めることができる。

したがって、被告のたばこ販売の被害者である原告らは、被告に対し適正な警告文の表示を求めることができる。

(4) 厚生省は、医薬品に副作用のおそれを記載するよう要請している。また、厚生省は、たばこの副流煙の害を認めている。さらに、被告は、オーストラリアにおいては、前記のとおり、たばこが有毒で常習性のあるドラッグであることを警告表示している。これらから、被告には、たばこの販売にあたり警告表示をする義務が条理上認められる。

(二) たばこは、前記のとおりの害毒を有する。この点から、被告のたばこの製造及び販売は、憲法一三条、二五条及び二二条に反し許されない。この違憲性を免れる場合があるとすれば、予備的請求にかかるたばこの健康に対する害に関する警告表示をする場合のみである。

右たばこに表示する警告文は、たばこの持つ毒性や被害、即ち発がん性、循環器への悪影響及び喫煙の周囲の人に及ぼす害毒を明確に告知する文言でなければならない。

現在表示されている「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」との警告文は、たばこの強力な発がん性や、血管の弾力性を失わせたり、たばこの強力な発がん性や、血管の弾力性を失わせたり、これを収縮させるなど、人体の循環器系に対する悪影響を告知せず、吸いすぎなければ健康を損わないと言っているに等しく、誤った情報を提供するものである。

また、右の警告文では、副流煙が喫煙者の周囲の人々に与える被害についての注意も与えていない。スウェーデンでは「あなたの喫煙は他人に害を与えます。周りの人に吹かけないように、子供と一緒のときは吸わないように。」との警告文を表示しているが、副流煙に含まれる有害物質の量は主流煙の数倍以上であり、殊に発がん物質の含有量が多いのであるから、周囲の人に強い害毒を与える旨の表示は絶対に必要である。

したがって、現在表示されている前記の警告文では、たばこの害悪及び危険性の告知を欠くものというべきであって、製造物責任法三条の欠陥に該当する。

(三) たばこに表示する警告文については、たばこ事業法施行規則三六条二項が、右の警告文を定めている。しかし、たばこは、前記のとおりの害毒を有し、たばこの製造及び販売は、憲法一三条、二五条に反し許されないのであって、この違憲性を免れる場合があるとすれば、予備的請求にかかる警告表示文言を記載する場合のみである。したがって、定められた文言以外の記載を禁止する現行のたばこ事業法施行規則三六条二項は、違憲違法である。

右規則による義務づけは、安全のための最低基準の義務づけと解すべきであり、さらに安全性を強化することは禁止されていないと解すべきである。

(四) よって、原告らは、被告に対し、製造物責任法の法理、民法七〇九条以下の不法行為の条項から導き出される法理、又は条理に基づき、たばこに「喫煙は中毒性があり、肺がん、心臓病、肺気腫等の原因となり、周囲の人にも害毒を与えます。」との警告文を表示することを求める。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実は否認する。

(一)(同2(二)の事実について)

副流煙は、喫煙者から吐き出される主流煙とともに環境中で大量の空気で希釈、拡散され、環境中たばこ煙(Environmentarl Tobacco Smoke=ETS)となる。

長期間のETS曝露による健康への影響については、疫学的調査が行われているが、現段階では、ETSへの曝露量が正確に測定できないなど、健康に影響があることは明確になっていない。一般にETSの濃度は微々たるものであるから、受動喫煙と健康への影響との関係は十分な蓋然性をもって裏付けられてはいない。

また、大気中には石油や石炭などの化石燃料の消費に伴う排煙、排ガスを発生源とする発がん物質が存在し、室内の空気は、戸外大気の室内侵入及び種々の発生源からの発散物により汚染されているから、受動喫煙の健康への影響を検討する際には、この点を念頭に置くべきである。

また、臨床医学的研究においては、眼、鼻、及び喉に対する刺激並びに咳などの一過性の症状は認められるものの、呼吸機能測定値などの生理的指標についての明らかな影響は認められていない。

(二)(請求原因2(三)の事実について)

(1) 依存症とは、行動を含め医学的に問題とみなされる依存状態のことであり、治療を要する病気という意味を含まない単なる依存とは区別される。

原告らは、喫煙習慣はアルコール依存症や麻薬中毒のように自己努力だけでは逃れることができないとして、入院治療が必要な疾病の存在を主張し、これをたばこ依存症と主張するものと思われる。

しかし、たばこは、他の多くの依存性薬物と比較して依存性が弱く、自己管理が十分可能な嗜好品であり、アルコール、麻薬、覚せい剤等による依存症とは異なり、社会機能障害や精神障害を伴うものではない。禁煙は自己の意思により行いうるものである。

即ち、たばこは、喫煙者側の条件によっては、精神依存、即ち薬物の作用が消失した場合に再び摂取したいという欲求が生じる状態をもたらすことはあるが、臨床的に無視できないほどの激しい退薬症候(いわゆる禁断症状)をもたらすことはなく、その身体依存性、即ち身体が薬物の作用に適応し、薬物を切らすと退薬症候を示すようになる作用は極めて弱いものである。

また、たばこに含まれるニコチンには精神毒性(極度の中枢抑制や興奮あるいは妄想幻覚などの精神中毒症状)がない。

さらに、ニコチンの依存性の特性としては、喫煙量が著しく増加することがないことも挙げられる。

以上のとおり、たばこ及びニコチンの依存性は実際上問題とならないほど弱いものであり、現在、一般の臨床診断において「たばこ依存症」なる疾病は存在しない。

(2) 原告らは、喫煙者の多くが禁煙を希望しながら成功しないとしてたばこの依存性が強度であると主張するが、厚生省保健医療局健康増進栄養課の監修による平成八年版「国民栄養の現状」及び総理府公報室編「日本人の酒とたばこ」によれば、禁煙希望者の多くは禁煙に成功しているものと推定でき、厚生省編「喫煙と健康」第二版には、禁煙に成功しないことの要因としては、ニコチンの依存性よりむしろ個人の性格や環境等他の多数の要因が考えられることが示されているのである。

(3) たばこは、我が国において、今日まで長年にわたり嗜好品として社会的に受容されてきたものである。

一般に依存性があるとされる製品は、通常自由に流通させ得る酒、茶、コーヒーなどの嗜好品と、麻薬や覚せい剤などの法禁物との二つに分けられるが、たばこの依存性は、麻薬や覚せい剤等の法禁物とは大きく異なり、嗜好品の中では茶、コーヒーに含まれるカフェインに近似するものである。

3  請求原因3の第一段の事実は否認する。同第二段ないし第四段の主張は争う。被告が外国で販売しているたばこの包装に表示している警告文は、いずれも各国の法令の定めに従って表示しているものであって、被告が喫煙の害を認めたものではない。

4(一)  請求原因4(一)ないし(四)の事実は不知。

原告西山の循環器障害及び前がん症状並びに原告松下の胃がんと喫煙の関係は明らかでない。原告加藤を除く原告らの症状は、たばこがやめられないと訴えるものにすぎず、精神的、身体的障害ではない。禁煙のための努力をしたこと及びたばこ依存症であるとの診断を受けたことは窺えない。

原告加藤の被害については、一般的に受動喫煙と呼吸器疾患との間には因果関係が認められていない上、原告加藤が平成三年一〇月の時点で慢性気管支炎であったことは疑わしく、仮に慢性気管支炎であったとしても、たばこ(受動喫煙)との因果関係を示す証拠はない。原告加藤の勤務する職場は、「建築物における衛生的環境の確保に関する法律」の規定を受けた同法施行令第二条に定められている建築物環境衛生管理基準によって維持管理されているはずであり、原告加藤の症状は、同原告の体質に起因するものである。

(二)  請求原因4(五)の事実は否認する。

5  請求原因6の主張は争う。

製造物責任法や不法行為の条項その他の法律をいかなる角度から検討しても、原告ら主張の警告表示を求める権利を認めることは困難であり、原告らの請求は法律上の根拠を欠くものである。

製造物責任法及び不法行為法は被害者に対する損害賠償によって事後的救済を図るものであり、被害者に適切な製造物の表示を請求する権利を付与するものではない。したがって、製造物責任法二条二項の欠陥の考慮事項である製造物の特性に製造物の表示が含まれ、ある製造物に適切な製造物の表示がなされていないとしても、この点が欠陥の有無の判断に影響し得ることは別として、被害者は、適切な表示を請求する権利を有するものではない。

原告らの右警告表示を求める請求は、原告ら自身の法的利益の保護を目的とするものとは解されず、いわゆる反喫煙運動の一貫としての一般的要求とみられるものであるから、右請求が法律上の争訟といえるか疑問があるが、これを置くとしても、仮に、たばこに原告ら主張のような害毒があるとすれば、原告らはこれを知悉しているのであるから、原告らの右請求は、原告ら自身の法律的利益の保護のための予防請求としては必要がなく、許されない。

第三  証拠

本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載を引用する。

理由

一  請求原因1の事実(被告のたばこの製造、販売)は当事者間に争いがない。

二  請求原因2の事実(たばこの有害性)について

1  能動喫煙について

証拠(甲一号証の一及び二、三号証の一ないし四、一六号証、一八号証、二五号証、六一号証、七〇号証、一〇五号証、一〇八号証、乙二号証、二二号証)及び弁論の全趣旨によれば、たばこの煙にはニコチン、種々の発がん物質、一酸化炭素、種々の線毛障害性物質、その他多くの有害物質が含まれていること、長期間の喫煙をした場合には、喫煙習慣のない者と比べて、肺がんその他の臓器のがんに罹患する確立が高くなること、たばこのタール中の発がん性芳香族炭化水素、N―ニトロソアミン、ヘテロサイクリックアミンなどの相互作用として発がん性が出現する可能性があること、喫煙の習慣によって虚血性心疾患、慢性気管支炎、肺気腫などの閉鎖性肺疾患、胃・十二指腸潰瘍などの消化器疾患、その他種々の疾患に罹患する危険性が増大すること、妊婦が喫煙した場合、早産、妊娠合併症、低体重児出産などの確率が高くなること、これら喫煙(能動喫煙)が身体の健康に及ぼす各種の害が幾多の研究結果及び報告によって指摘されていることが認められる。

他方、前掲証拠中には、たばこの煙のみで肺がんを発生させることは困難であるとの実験結果や喫煙と非腫瘍性呼吸器系疾患との関係に関する、加齢に伴う呼吸機能低下に際して喫煙の影響を受けやすい個体と受けにくい個体があるとの臨床医学的研究の結果及び一酸化炭素の慢性影響についての知見が十分ではないとの報告などもあることが認められるが、長期間の能動喫煙には、前記のとおり身体の健康に対して各種の悪影響を及ぼす危険性があるとの認識は、ほぼ一般化しているものと認められる。

2  受動喫煙について

証拠(甲三号証の一ないし四、一八号証、一〇八号証、乙二号証、二二号証、二五号証、二八号証、三二号証)及び弁論の全趣旨によれば、たばこの煙によって、眼、鼻及び喉に対する刺激並びに咳などの症状が認められること、たばこの点火部分からたちあがる副流煙は健康に有害な物質を含有し、副流煙を非喫煙者が吸引する受動喫煙によって、がんや虚血性疾患、呼吸器疾患などの疾病に罹患する危険性を指摘する者があることが認められるが、これに対して、副流煙の受動喫煙の場合には、喫煙者が直接主流煙を吸入する場合に比してたばこの煙の濃度は通常希薄であって、仮に受動喫煙と肺がんなどの発症との間に関係があり得るとしても、その関連性は極めて弱いものと考えられ、これまでの研究段階では、両者の因果関係は十分な蓋然性をもって裏付けられるまでには至っておらず、呼吸機能測定値などの生理的指標についての明らかな影響も認められていないこと、生活環境中には多様な発生源から放出された発がん関連物質が存在すること、また、各国で行われた調査結果の検討から、室内環境におけるたばこ煙(ETS)が肺がんの危険性を増大させることを示すことはできないとする報告があることが認められる。

右の各種の報告等を対比検討してみるに、副流煙が環境中のたばこ煙となって受動喫煙されることと健康被害との関係については、そのたばこの煙の濃度が、換気条件やたばこの煙の吸入時間、室内構造物への附着その他もろもろの要因に影響されるため、両者の関係を客観化して把握することが困難であることは否定できないから、現状においては、環境中たばこ煙(ETS)が健康に及ぼす被害の有無、内容、程度については、なお研究途上の段階にあって、十分な解明がなされているとは認められない。

3  たばこ依存症について

証拠(甲三号証の一及び二、一一号証、三六号証、四八号証、五五号証、七〇号証、一〇四号証、乙一七号証、二一号証、二二号証)及び弁論の全趣旨によれば、喫煙者の多くが禁煙や節煙を希望しながら、心理的、薬理的な依存性により喫煙を続けていることを指摘する見解があり、また、シガレット及びその他の形態のたばこには嗜癖性があり、ニコチンはたばこ中に含まれる薬物であって嗜癖の原因となり、たばこが嗜癖を形成する薬理学的プロセス及び行動過程は、ヘロインやコカインのような薬物の嗜癖形成の過程と似ているとの趣旨のアメリカ合衆国公衆衛生総監による報告があることが認められる。

しかし、証拠(甲三号証の一及び二、五五号証、乙二号証、三号証、四号証、七号証、九号証、一二号証、一三号証、一五号証、一七号証、一八号証、二二号証)及び弁論の全趣旨によれば、ニコチンの身体依存性は弱く、臨床的に無視できないほどの激しい退薬症候(禁断症状)は認められず、その精神依存性は、ヘロインやコカインなど他の多くの依存性薬物の場合と比較してみると明らかに弱く、喫煙習慣を持った者が禁煙を試みた時に不快感や苦痛を覚えることがあるものの、その程度は他の依存性薬物の場合とは質的な差があること、また、ニコチンの精神依存性は、個人の性質や体格、環境その他の状況に左右されること、ニコチンには精神毒性(極度の中枢抑制や興奮、妄想幻覚などの精神中毒症状)を起こす作用もないことを指摘する報告も見られる。

右の報告等を対比検討してみると、たばこ及びその成分であるニコチンは、個人の人格特性やストレスその他の環境など外的要因いかんによっては一種の依存的な状態を形成する場合が認められるものの、その程度、態様は、他の依存性薬物と比べて格段に弱いものであり、通常、治療を要するほどの病的な依存状態をもたらすものとは認め難いというべきであり、原告らが主張している「たばこ依存症」が、疾病として一般に認知されているとは認められない。

三  請求原因4の事実(原告らの被害)について

1  証拠(甲六号証、二三号証、二八号証の一及び二、一〇六号証の一)及び弁論の全趣旨によれば、原告加藤を除く各原告らが、それぞれ請求原因4(二)(1)ないし(3)記載のとおりの喫煙歴を有すること、原告西山が同4(二)(1)記載のとおり循環器障害のため通院治療を受け、前がん状態との診断を受けたこと、原告松下が同4(二)(2)記載のとおり胃がんに罹患したこと、右各原告らが、それぞれ禁煙を希望しながら、これを実現できない悩みを持っていることが認められる。

そして、原告西山及び原告松下は、各自の罹患した疾患が喫煙によるものである旨主張し、また原告西山、原告松下及び原告西本は、各自が禁煙を達成できないことがたばこ依存症によるものである旨を主張するものである。

しかしながら、長期間の能動喫煙が、一般に循環器障害やがん等の疾病を含む各種の病気に罹患する確率を増すものと認識されていることは前記のとおりであるが、そのことから直ちに原告西山及び原告松下の右各疾患が喫煙によるものと認めるには足りないし、右両原告の罹患した疾病と喫煙との関係を裏付けるべき医学的な診断がなされたことを示す資料も見あたらないから、右両原告の喫煙と疾病との因果関係は不明といわなければならない。また、能動喫煙の有害性についての一般的な認識があることによって、直ちに右両原告の疾病が喫煙を原因とするとの高度の蓋然性があると認めることも困難である。

また、右各原告らは、たばこ依存症のために禁煙が達成できないとも主張するが、疾病としてのたばこ依存症を認めるに足る証拠はないことは前記のとおりであるから、右原告らの主張も採用できない。

2  証拠(甲三二号証の一ないし四、五一号証の一及び二、原告加藤本人)によれば、原告加藤は、請求原因4(三)第一段記載のとおり、平成三年四月ころから職場における受動喫煙に苦痛を覚え、同年一〇月以降、慢性気管支炎、慢性喉頭炎、慢性咽頭炎との診断を受けて通院治療を受けていることが認められる。

原告加藤は、右の疾病が受動喫煙を原因とするものである旨主張するが、環境中たばこ煙(ETS)の受動喫煙と健康被害の関係については、前記のとおり、なおその関係が解明されているとは認められず、原告加藤についてもこれを認めるに足る証拠はないから、同原告の右の主張は採用できない。

3  以上のとおり、各原告らの罹患した疾病とたばこの煙の関係は、なお不明といわなければならず、原告西山、原告松下及び原告西本がたばこ依存症なる疾病に罹患して禁煙が達成できないとの事実を認めることもできないから、もとより、これらと被告のたばこの製造、販売との間に因果関係を認めることもできない。

また、前項掲記の証拠によれば、原告加藤は、医師から、たばこの煙に対する感受性が強いので、職場環境上たばこの煙について配慮が必要である旨の診断を受けていることが認められるが、同原告の罹患した前記の各疾病と職場における受動喫煙の因果関係が明らかでないことは既に述べたとおりであり、原告加藤について配慮が必要とされている前記の点は、同原告の体質的な要因が作用しているものと窺われるから、これについては職場の分煙措置などによって対応すべきものというべきである。したがって、原告加藤について右のように指摘される点についても、これと被告のたばこの製造、販売との間に相当因果関係を認めることはできない。

4  個人の生命、身体の安全に関する利益が違法に侵害され、又は現実に侵害される危険がある場合で、その侵害の程度、態様が受忍限度を超えるときは、人格権侵害として、現に行われている侵害行為の排除や将来生ずべき侵害行為の差止めを請求することが可能と解すべきであるが、原告らの主張にかかる前記の各症状ないし被害が、被告のたばこの製造及び販売との間に相当因果関係を認め難いことは既に説示のとおりであるから、その差止請求には理由がなく、同様に不法行為による損害賠償の請求も理由がない。

四  主位的請求について

以上のとおり、原告らの主位的請求は、いずれも理由がない。

五  予備的請求について

原告らは、予備的に前記のとおりの警告文の表示を求めているが、原告らがその請求の根拠として主張する製造物責任法の規定や民法七〇九条、憲法一三条の各法理及び条理のいずれにせよ、被告による原告らの権利の侵害が立証されない限りは、右各規定やその法理等から何らかの請求権の発生を認めるべき余地はなく、本件において、原告ら主張にかかる被告による身体ないし人格権の侵害の立証がないことは前記のとおりであるから、その余の点について検討するまでもなく、原告らの予備的請求も理由がない。

六  結論

よって、原告らの請求は、いずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法六一条、六五条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官中村直文 裁判官藤田敏 裁判官真鍋麻子)

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